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2018年03月22日
最上のわざ
ケアマネジャーとして家を訪問させて頂いただいた時、ご本人様から、「早く死にたい」というコトバを投げかけられる事が結構あります。そんな時、「そんな事を言わないで、これからも頑張ってやっていきましょうよ」などといった、ありきたりな返答をする状況に陥る訳だが、言っている当人が白々しく思っているわけだから、それを聞かされている相手方は恐らくもっと白々しい気持ちになっているのだろうと事は容易に想像が付くわけで、なんとなく気まずい時空を共有する事になる。思うに高齢になり仕事を辞め、社会が狭まり、自分の体が思うように動かせなかったり、配偶者が亡くなったりといった状況の中で、人は、自分が本当に生きる価値があるのかという事を自分自身に納得させるということは、存外難しいことなのかも知れない。
社会というものは常に進歩して行くというような進歩史観的社会では、過去は現在と比べれば常に劣った社会であり、未来から見れば現在は常に未発達な社会である。伝統的社会に於いては、経験と熟練ということが価値としてその社会の中に位置付けられ、いわゆる長老と言われる人が実質的に尊重され、社会から尊敬の眼差しを向けられるであろうが、変化の激しい現代にあっては、なまじ成功体験を積んだ経験主義的高齢者の言動には、実質的価値はなくむしろ老害などと揶揄される可能性が大なのである。従って現代社会での敬老というものは形式主義にならざるを得ない。そしてその事を高齢者は肌で感じているから「早く死にたい」となってしまうのだろうか。
『先祖の話』という柳田國男が昭和20年4月から5月にかけて著した書物の中に、原町田(現、町田市)でバスを待つ間、「自分はそのうちにご先祖様になるんだ」と語る同年配の老人との会話を記した章があります。祖先、我、子々孫々と連綿と続くであろう生命の流れの中に自己を位置付け安心立命しているその老人を柳田は「今時ちょっと類のない、古風なしかも穏健な心掛けだと私は感心した」と記している。家制度の時代をどっぷりと生きていた柳田が敗戦前に、既に、この老人の事を古風と評したことは、敗戦により昭和23年に家制度が廃止されたが、江戸時代という伝統的社会から近代国家へ変貌していく過程の中で、既に戦前よりはるか前から家制度は時代錯誤を呈していたという事か。変化の激しい社会の中で人生の晩年を下支えしてくれるどのような物語が可能なのだろうか。昨日よりも今日、今日よりも明日は進歩していなければならないという近代的価値観が支配している社会の中で、老いや障害によってその様な社会に適応できなくなってしまった場合、何を支えに己を位置付けたらいいのか。障害者自立支援法? 死の間際まで自立に向けて努力しなければならない国民の義務?? 一億総活躍??? 活躍したくとも活躍できない人々が「早く死にたい」などと言わないで済む社会に向けた物語を描いてくれる政治家が必要なのかもしれない。仮にその様な物語を描いたとしても、それが現実に実現されるとは思わない。しかし、その様な物語を描く努力を放棄してしまえば、すさんだ社会になって行くだけである。既に相模原障害者施設殺傷事件が起こっている。近代化のトップランナーであったイギリスで「孤独担当相」が新設されました。『メイ首相は「わが国の社会、そしてわれわれ全員が抱える孤独という問題に向き合い、高齢者や介護者、愛する人を失った人々──話をする相手や自分の思いや体験を分かち合う相手がいない人々が直面している孤独に対し、行動を起こしていきたい」と述べた。』というニュースが流れていました。
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、
ねたまず、人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
ヘルマン・ホイヴェルス神父
ケアプランふくしあ 木藤
社会というものは常に進歩して行くというような進歩史観的社会では、過去は現在と比べれば常に劣った社会であり、未来から見れば現在は常に未発達な社会である。伝統的社会に於いては、経験と熟練ということが価値としてその社会の中に位置付けられ、いわゆる長老と言われる人が実質的に尊重され、社会から尊敬の眼差しを向けられるであろうが、変化の激しい現代にあっては、なまじ成功体験を積んだ経験主義的高齢者の言動には、実質的価値はなくむしろ老害などと揶揄される可能性が大なのである。従って現代社会での敬老というものは形式主義にならざるを得ない。そしてその事を高齢者は肌で感じているから「早く死にたい」となってしまうのだろうか。
『先祖の話』という柳田國男が昭和20年4月から5月にかけて著した書物の中に、原町田(現、町田市)でバスを待つ間、「自分はそのうちにご先祖様になるんだ」と語る同年配の老人との会話を記した章があります。祖先、我、子々孫々と連綿と続くであろう生命の流れの中に自己を位置付け安心立命しているその老人を柳田は「今時ちょっと類のない、古風なしかも穏健な心掛けだと私は感心した」と記している。家制度の時代をどっぷりと生きていた柳田が敗戦前に、既に、この老人の事を古風と評したことは、敗戦により昭和23年に家制度が廃止されたが、江戸時代という伝統的社会から近代国家へ変貌していく過程の中で、既に戦前よりはるか前から家制度は時代錯誤を呈していたという事か。変化の激しい社会の中で人生の晩年を下支えしてくれるどのような物語が可能なのだろうか。昨日よりも今日、今日よりも明日は進歩していなければならないという近代的価値観が支配している社会の中で、老いや障害によってその様な社会に適応できなくなってしまった場合、何を支えに己を位置付けたらいいのか。障害者自立支援法? 死の間際まで自立に向けて努力しなければならない国民の義務?? 一億総活躍??? 活躍したくとも活躍できない人々が「早く死にたい」などと言わないで済む社会に向けた物語を描いてくれる政治家が必要なのかもしれない。仮にその様な物語を描いたとしても、それが現実に実現されるとは思わない。しかし、その様な物語を描く努力を放棄してしまえば、すさんだ社会になって行くだけである。既に相模原障害者施設殺傷事件が起こっている。近代化のトップランナーであったイギリスで「孤独担当相」が新設されました。『メイ首相は「わが国の社会、そしてわれわれ全員が抱える孤独という問題に向き合い、高齢者や介護者、愛する人を失った人々──話をする相手や自分の思いや体験を分かち合う相手がいない人々が直面している孤独に対し、行動を起こしていきたい」と述べた。』というニュースが流れていました。
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、
ねたまず、人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
ヘルマン・ホイヴェルス神父
ケアプランふくしあ 木藤
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