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2018年08月31日

山の日

 今日で8月も終わり。あまりにも厳しい暑さだったせいか1か月が長かったような気がします。
一昨年から制定された8月の祝日「山の日」にちなんでというわけではありませんが北アルプス・燕岳(2763m)へ登ってきました。

燕岳は美しい山容から北アルプスの女王と呼ばれていて1度は登ってみたいと思っていましたが登山歴浅く、高所があまり得意ではない私には刺激的な体験でした。ひたすら登りの5時間半は特に危険な個所はないものの、かなり暑くて滝のような汗をかきながら、高山病になることもなく無事登頂!山頂からの景色は想像以上の絶景。生きてて良かった・・はオーバーかな?
そして人気の山小屋で1泊。満員御礼の山小屋では1枚の布団に寝るのは2人。背中合わせは知らない男性で一睡も出来ず朝を迎えました。


山に沈む夕日、満天の星空、日の出と素晴らしい景色は感動的!きらきら



どちらが朝日でどちらが夕日でしょうか。

お日様パワーを頂き、いざ下山!
あとは下るだけと、甘く考えて勢いに任せて下山していたら半分を過ぎたあたりから膝⇒もも⇒腰と痛みに襲われ登山口に戻ってきたあたりからは前腿が悲鳴を上げ、後ろ向きに歩いていました。
ペース配分・休憩の取り方・山の歩き方勉強不足だったと反省。
もう2度と登らない!なんて考えながら下りていたのが、終わってみるとまた登りたい!に代わっていて、これが山の魅力ですね。
途中出会った83歳の女性は毎年登っているとの事。
小柄な体格に大きなリュックを背負い、しっかりした足取りで歩いていらっしゃいました。
余裕の笑顔にこれまでの人生を想像してしまいました。
私は一体いくつまで登れるのでしょう。

                                            ケアプランふくしあ 黒田でした。

  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 12:41コメント(0)
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2018年08月21日

年をとるって悪くないかも?

日本は今約4人にひとりはお年寄りという、超高齢化社会。
「年をとるのはいやだ」 「お荷物になるのはいやだ」という声は耳にするものの、若者よりむしろ元気、
現役世代よりパワーのあるお年寄りは大勢いらっしゃいます。
悩みや愚痴はあるけれどそんなお年寄りのみなさんが言いたいことをもっと言える場所が作れればという事で
ある冊子が出ました。  
「シルバー川柳」という2011年に発行された中から読んでいて思わずうなずいてしまう作品をご紹介させて
頂きます。

「目には蚊を  耳には蝉を 飼っている」

「立ち上がり  用事忘れて また座る」

「名がでない  あれ これ それ で用を足す」

「深刻は 情報漏れより  尿の漏れ」

読んでいて思わずわかるわかると言いたくなるような作品がたくさん掲載されています。

生まれてきたからには必ず誰でも最後を迎える時が来ます。

山あり谷あり、楽しいことばかりではないデコボコ道だけれど、年を重ねることで見えてくる景色もあります。

力を抜いて気持ちよく、かっこよく、素敵に年を重ねていけたらと思います。


                  ケアプランふくしあ 
    大澤でした  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 16:35コメント(0)
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2018年08月14日

神用語

 『おじいちゃん、おばあちゃんの言うことが、時に分からなくなる。
「ホレ、アノ、ナニをアレしてくれる。あのナニを……」などと言いうのは、まだいいほうで、脈絡のない話の内容がつかめなくて、どうなっているのかと思わされる。こんなときに、老人性痴呆とか、老人ぼけという言葉が最近では一般に知れわたりすぎて、「うちのおじいちゃんも、老人ぼけになった」などとすぐに断定してしまう。ゆっくり落ち着いて聞いていると、わかる話でも、「ぼけている」と決めこんでしまっていると、わからなくなってしまう。老人のほうにしても、聞く者の態度にいらだってしまうので、言葉がスムーズに出なくなってしまい、ますます悪循環がひどくなってくるのである。
 アイヌ(イヌイット)の人たちは、老人の言うことがだんだんとわかりにくくなると、老人が神の世界に近づいていくので、「神用語」を話すようになり、そのために、一般の人間にはわからなくなるのだと考える、とのことである。老人が何か言ったとき、「あっ、ぼけはじめたな」と受けとめるのと、「うちのおじいちゃんも、とうとう神用語を話すようになった」と思うのとでは、老人に接する態度が随分と変わってくることであろう。
「神用語」という言葉を考えだしたアイヌ(イヌイット)の人たちの知恵の深さに、われわれも学ぶべきである。』
河合隼雄 平成3年読売新聞夕刊コラムより

 最近、新聞に、認知症にならない為のハウツー本に関する広告を目にしない日が無いくらいよく掲載されているような気が致します。また、『認知症高齢者は2012年で462万人(約7人に1人)2025年に700万人(約5人に1人)になると厚生労働省は推計しているようで政府の過去の推計を大幅に上回るペースで増加しているとのご見解で、こりゃあ大変だということで厚労省は認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)を策定しています。これらの対応の根底には「認知症」=「困りごと」といった図式がドミナントストーリーとして社会に共有されているという事を示唆している様に思います。人が誕生し、成長してやがて色気づく。歳を取ると白髪、皺、シミが増える。ガタも出る。やがて死が訪れる。この一連の流れは、人間の意志や意識とは関係ない。勝手にそうなるだけである。いわばDNA(神)用語の発現である。人間の意識的活動の最たるものは、言語と貨幣(経済)である。教育とはこの意識的世界への取り込み(洗脳)である。認知症とはその世界からの離脱(或いは脱却)である。人間的意識中心の価値観(人道)からすれば、認知症というのは、「困りごと」なのかもしれないが、私が思うに「認知症」も生命現象(天道)の中の一つの様相なのではないかということである。認知症という様相に対して、社会がどのように向き合っていくのかという事は、その社会にとっては文化力が試されているという事ではないだろうか。

ケアプランふくしあ 木藤
  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 15:36コメント(0)
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2018年08月07日

タナトスからエロスへ

 昭和62年に出版された「老人患者の心理と看護」という本を読んで、そこに記述されている老人像と今の老人像との違いに改めて時代変化の激しさを考えさせられました。約30年前の80歳代の中心は明治生まれです。この世代の人格形成に影響を与えたであろう基礎的教養は葉隠の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」や教育勅語の国家道徳としての「忠」そして個人的道徳としての「孝」、いわゆる「忠孝」が中心だったのではなかと思います。若い時は共同体の一員として国の為に働き、親が老いればその世話をするのは当たり前で、逆に当人が年を取り介護が必要にになった時には、嫁が介護するのが当然であって、社会的サービスを使わざるを得なくなった場合には、申し訳ないあるいは情けないという心情が根底にあったように思います。

この書籍の中で著者の母親(66歳:T10年前後の生まれ、存命であれば98歳位)の事が次にように紹介されていました。「明治生まれの義母に仕え、戦時下及び戦後の困窮期に育児をしてきた母は、常に短剣を肌身離さずもち、『死に対して恐怖はなかった。いつでも死ねるという確信があった』と私の母(66歳)は今、話しています。」武家の血筋を引く方なのかも知れないが、昭和60年代にこの様な死生観を持ち続けている人が居たという事に驚きを感じました。
三世代世帯の割合は昭和60年頃は46%、平成26年は13%位です。自分の親は子供が面倒を見るのが当然という意識は昭和一桁世代で終焉を迎えたように思います。

 江戸時代(特に人口が増加してきた中期)は、相当な間引きによる人口調整が行われていたらしい。昭和4~6年の大恐慌と大凶作の時代、東北農村では木の実やネズミなどで飢えをしのぎ、娘の身売りも全国で4万人を超えたと云う。もともと貧乏な国民なのである。歴史的な時間感覚で言えば昭和初期など昨日の出来事みたいなものである。江戸時代では、子供は5歳までは天からの預かりものという感覚があった。要は乳幼児死亡率が高かったので5歳前に亡くなる子供が多かったという事である。昭和であっても抗生剤がなかった戦前まで状況は同じようなものだったのだろう。想像するに戦前世代の多産な時代の親で自分の産んだ子供が一人も亡くならずに大人になったという親は少数派だったのではないだろうか。逆に戦後世代の親で自分の子供を亡くすという経験をしている親は圧倒的少数派であろう。昭和20年を境に親としての体験もそれだけ違うのである。

 自然災害の多い風土と相まって貧乏が当たり前だった戦前に育った日本人にとって死は身近であり、『死に対して恐怖はなかった。いつでも死ねるという確信があった』というように、文化としてタナトス的な傾向を持っていたように思えます。それが敗戦を機に、戦後民主主義とエネルギーの大量使用による消費万能社会のもと生を謳歌するというエロス一辺倒へ激変した。
 今の高齢者は言わばこの価値観の手のひら返しをされた世代である。T11年生まれの三浦綾子はそれまでは正しいと信じて教えていた教科書に、敗戦後は生徒に墨で塗りつぶすよう指導しなければならない事に強い慚愧を覚えキリスト教信者になった。S12年生まれの養老孟司氏は、教科書を墨で塗りつぶすよう指導された教育を、皮肉を込めこんな最高な教育はないだろと云う。昨日まで正しいと言われた事が今日からは正しくないという、要するに大人の都合など全くあてにならないという事を子供心に強く深く刻んだという事なのだろう。
 この手のひら返しを経験され社会構造(共同体から個へ)の変化の中を懸命に生きて来た現在の高齢者の心の底流には、私たちの気持ちは今の人には分かってはもらえないというような諦めの気持ちと孤独感があるように感じられることがあります。
 2025年からはいよいよ、戦後生まれのエロス一辺倒の申し子世代が80歳代を迎える事になります。若い時は学生運動や労働運動に、壮年期には高度経済成長とバブル経済と、比較的自由奔放に生きて来られた世代だが、親は大正生まれで親子間での価値観の捻じれを引きずってきた世代でもる。これから高齢期になって行く世代は、基本的には子供に世話になるよりも社会サービスを利用して行きたいという世代が年々増えて行くことになるのであろうが、その需要に応えられる社会的リソースがはたしてあるのかどうか? 
 S51年を境に病院死が在宅死を上回り、現在、自宅で亡くなるのは12%位である。大井玄氏が『人間の往生』の中で「医療技術による管理が進めば進むほど、死は家族から隠される傾向にある。死は、家族、そして社会一般から隔離され、抽象化され、結果としてほとんど神経症的に怖れられる現象となった」と指摘しているように、エロス一辺倒の価値観の中で「死」の抽象化が進んだが、「死」と「生」は言わば「地」と「図」のようなものである以上、「死」の抽象化が進むということは「生」の抽象化が進むということである。このようなパラドキシカルな時代に老人となって行く戦後生まれの第1世代高齢者はどのような老人像を後進に示されるのだろうか。

                             ケアプランふくしあ 木藤
  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 08:26コメント(0)
ケアプランふくしあ-居宅介護支援

2018年03月29日

断捨離

先週市役所より肺炎予防の注射券?が届きました。あれ?まだ早いのではと無駄なあがき(笑)と
思いつつ確実に年を重ねてるのだなぁとしみじみと感じさせられます。

そんな中、最近身の回りのいらないものをどうにかしようと部屋の中を見渡し、そして娘がお嫁に行った
時、いらないからと置いて行った品物の数々。。。。一部は捨てたのですがもったいないとつい元に戻す
の繰り返しだったけどそう[フリーマーケット]に出してみようと思い立ち早速日曜日に越谷で行っていた
フリーマーケット会場を見てきました。

子供服や靴や婦人服、あとはプロの人かなと思うような品物等々色々出てました。自分のところでは
必要なくても他の方に使ってもらえるのなら断捨離=エコにもつながるのではと勉強になる時間を過ごしました。

これからは身の周りを軽くして(脂肪だけは落ちないんですが)有意義な老後にそなえていきたいなぁと
考えるお年頃face_03です。

ケアプランふくしあ   大澤でした。  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 13:06コメント(0)
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2018年03月22日

最上のわざ

 ケアマネジャーとして家を訪問させて頂いただいた時、ご本人様から、「早く死にたい」というコトバを投げかけられる事が結構あります。そんな時、「そんな事を言わないで、これからも頑張ってやっていきましょうよ」などといった、ありきたりな返答をする状況に陥る訳だが、言っている当人が白々しく思っているわけだから、それを聞かされている相手方は恐らくもっと白々しい気持ちになっているのだろうと事は容易に想像が付くわけで、なんとなく気まずい時空を共有する事になる。思うに高齢になり仕事を辞め、社会が狭まり、自分の体が思うように動かせなかったり、配偶者が亡くなったりといった状況の中で、人は、自分が本当に生きる価値があるのかという事を自分自身に納得させるということは、存外難しいことなのかも知れない。

 社会というものは常に進歩して行くというような進歩史観的社会では、過去は現在と比べれば常に劣った社会であり、未来から見れば現在は常に未発達な社会である。伝統的社会に於いては、経験と熟練ということが価値としてその社会の中に位置付けられ、いわゆる長老と言われる人が実質的に尊重され、社会から尊敬の眼差しを向けられるであろうが、変化の激しい現代にあっては、なまじ成功体験を積んだ経験主義的高齢者の言動には、実質的価値はなくむしろ老害などと揶揄される可能性が大なのである。従って現代社会での敬老というものは形式主義にならざるを得ない。そしてその事を高齢者は肌で感じているから「早く死にたい」となってしまうのだろうか。

 『先祖の話』という柳田國男が昭和20年4月から5月にかけて著した書物の中に、原町田(現、町田市)でバスを待つ間、「自分はそのうちにご先祖様になるんだ」と語る同年配の老人との会話を記した章があります。祖先、我、子々孫々と連綿と続くであろう生命の流れの中に自己を位置付け安心立命しているその老人を柳田は「今時ちょっと類のない、古風なしかも穏健な心掛けだと私は感心した」と記している。家制度の時代をどっぷりと生きていた柳田が敗戦前に、既に、この老人の事を古風と評したことは、敗戦により昭和23年に家制度が廃止されたが、江戸時代という伝統的社会から近代国家へ変貌していく過程の中で、既に戦前よりはるか前から家制度は時代錯誤を呈していたという事か。変化の激しい社会の中で人生の晩年を下支えしてくれるどのような物語が可能なのだろうか。昨日よりも今日、今日よりも明日は進歩していなければならないという近代的価値観が支配している社会の中で、老いや障害によってその様な社会に適応できなくなってしまった場合、何を支えに己を位置付けたらいいのか。障害者自立支援法? 死の間際まで自立に向けて努力しなければならない国民の義務?? 一億総活躍??? 活躍したくとも活躍できない人々が「早く死にたい」などと言わないで済む社会に向けた物語を描いてくれる政治家が必要なのかもしれない。仮にその様な物語を描いたとしても、それが現実に実現されるとは思わない。しかし、その様な物語を描く努力を放棄してしまえば、すさんだ社会になって行くだけである。既に相模原障害者施設殺傷事件が起こっている。近代化のトップランナーであったイギリスで「孤独担当相」が新設されました。『メイ首相は「わが国の社会、そしてわれわれ全員が抱える孤独という問題に向き合い、高齢者や介護者、愛する人を失った人々──話をする相手や自分の思いや体験を分かち合う相手がいない人々が直面している孤独に対し、行動を起こしていきたい」と述べた。』というニュースが流れていました。

最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、
ねたまず、人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
ヘルマン・ホイヴェルス神父

ケアプランふくしあ 木藤  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 19:35コメント(0)
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2018年03月14日

冬から春へ

最近は暖かいj日が続き、桜の開花も早まりそうですね。
ケアプランふくしあの事務所は、桜通りと銀杏通りの間にあります。
ケアマネージャーの仕事は、訪問することも日々ありますが、車や場所により、自転車で移動します。
春の桜通り、秋の銀杏通りは特に自転車での移動時はつい、立ち止まり見上げてしまいます。圧巻ですよね花赤
桜通りの桜の木 542本ソメイヨシノが3㎞にわたり並んでいるそうですよ!
吉川市も『桜まつり』なるものを企画して夜はライトアップなんかもするみたいです。
待ち遠しいですねはあと あか

さて・・・
日中は暖かいですがまだまだ朝晩冷え込むことがあるのがこの季節。気温の差も大きかったりしますね。
花粉症の私としましては毎日花粉とも戦っているわけですが、face_07  今年はきつい!特に目がかゆくてface_08
今回は健康豆知識として知りえたことを少し紹介します
 (腸を温めることで、免疫力あっぷ!!)
1、高タンパク低カロリーの食品を積極的に摂取する。
 体を温めるにはタンパク質が必要 鳥のささ身、マグロの赤身、豆腐他
2、土の中で育った野菜や冬が旬の野菜で冷えない体を作る。
 体を温めてくれる野菜 ゴボウ、人参(土の中で) ネギ、イモ類(冬が旬)これらの野菜には血行をよくするビタミンEや血管の機能をよくするビタミンCが含まれている。
 (日光を浴びよう!!)
1、日光には紫外線が含まれていますが、多量に浴びなければ健康な方はプラスに!
 紫外線の刺激により体内でビタミンDが育成される。
ビタミンD(骨粗しょう症予防、他うつ病予防、癌や歯周病、自己免疫疾患にかかるのを防ぐ)
ただし、日光にあたる頻度は、週に3回程度、1回あたり15分程度がいいとされているそうですよ。

これからの季節  お花見をしながらお散歩もいいですねface_02

   今回はこの辺で  ケアプランふくしあ 檜木でした

  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 12:00コメント(2)
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2018年03月07日

幸せになる方法(ロバート・ウォールディンガー編)

  ハーバード大学には80年間続いている「 成人発達研究 」という有名な調査があります。
一生を通して、私たちを健康で幸福にしてくれるのはなんだろう? そう問われて、思い浮かぶ答えはなんだろうか。ハーバード大学の心理学者ロバート・ウォールディンガー教授らによる成人発達研究によると、8割の人は「富を蓄えること」と答え、そのうち5割の目標はさらに「有名になること」としたという。
 1930年代に始まったこの研究では、75年間724人の男性を追跡記録していった。史上最長期間をかけて成人の生活を追った調査で、教授はその4代目の研究主任だ。この調査では、ふたつの環境下から研究の対象者を選んでいる。ひとつ目のくくりはハーバード大学の2年生で、ふたつ目のグループはボストンの極貧環境で水道すらままならない環境で育った少年達だった。彼らを長期にわたって定期的に訪問してはインタビューを行ない、医療記録までを調査対象としていった。
 被験者の人生を追いかけていくと、工場労働者もいれば、弁護士になったもの、レンガ職人や医師、アルコール中毒者や統合失調症患者もいれば、ひとりはアメリカの大統領になったものもいたという。
 こうして追跡した何万ページもの情報を見ると、浮き上がってくることがあった。それは人を健康で幸福にするものは、富でも名声でも、いい仕事を得て働くことでもなく……、“よい人間関係を築くこと”に尽きるというのだ。そして、人間関係に関して大きな教訓がみられたという。
ひとつは、家族でも友達でもコミュニティでも、周りとつながりが上手な人は健康で長生きをするというもの。逆に孤独は命取りで、孤立化を受け入れている人は、あまり幸せを感じず、脳機能の減退も早期に始まるという結果だった。
 たとえば結婚をして伴侶と一緒にいても、ケンカが多ければストレスはたまるし、健康には悪影響となる。さらに、人といても孤独を感じることになるだろう。愛情があるいい人間関係を築くことが、人を守ってくれるというわけだ。
 以上、インターネットから。

自己中の塊のような国民性と思えるアメリカ人の幸福度を左右する重要因子が良い人間関係だったとは意外な事なのか、将又、アメリカという国は日本人が思う以上にファンダメンタリズムな国家であって、社会の共通基盤としてキリスト教があり、その下で個々人が結びつく(インテグレート)ことに高い価値を感じているのか?

今、日本での親子関係は、子供と同居するより、お金で介護サービスを買った方が楽だと考えている人は少なくないと思います。お金を使えば、面倒な人間関係を省けます。人間関係にお金を介在させればさせるほど、面倒な人間関係を省けると同時に人間関係は希薄になります。とどのつまりが、無縁社会となる。3.11後、「絆」の復権が叫ばれましたが、面倒な人間関係を覚悟しなければ、「絆」は創れません。日本社会を実質的に下支えしていた共通基盤としての家を単位とした共同体はもはや無い。個人を単位として共同体(コニュニティー)を形成する文化的基盤もない。根無し草のような戦後民主主義があるだけである。その中で高齢者福祉を福祉政策から利用者が主体的に選べるサービスという旗印のもと保険制度に変更しました。その変遷後に行政がやっている事は、サービス利用に対するアクセス制限強化、低所得者へのしわ寄せ、介護労働の官製ダンピングという方向性での制度改正を行い続けているというのが実態だと思います。要は財政難からお金で問題を解決することが出来なくなっているということです。無縁社会は、戦後の日本人が日本特有の同調圧力の高い面倒な「絆」からの解放を求めてきた成果物です。その成果物を成り立たせていたお金が無くなった時から新しい「絆」の再生に向けて私達は佇むことになるのでしょうか。因みに、「世界幸福度ランキング2017」によると、日本は主観的幸福度51位、G7の最下位、OECD加盟35カ国の27番目だそうです。

ケアプランふくしあ  木藤
  


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2017年10月25日

人の話を聞くことの難しさ

 『いくら親しい人との楽しいおしゃべりでも、一方的に聞き手にならなければならないときは疲れるのです。職場でも、家庭でも、このようなことはけっこうあるもので、上の者が下の者の話を聞くのがいいのですが、実際には逆のことのほうが多いのです。上司と飲んだときは、家に帰ってからそれを吐き、あらためて家で飲み直さないと眠れないという人がいましたが、これは上司の、酒ではなくて話が飲みこめなかったからです。飲みこめない話をたくさん聞かされると、本当に下痢をする人もいます。話を自分なりに消化できなかったからです。
母親から、祖母や父親のぐちを聞かされつづけた子どもには、心理的な症状が出ることが知られていますが、このように心理的症状を出す人の多くは、家族の葛藤の調整役をしています。調整役とは家族の話の聞き手です。消化できない話や納得できない話をじっと聞かされると、聞いた人が苦しむのです。
プロのカウンセラーにしても、自分の身内の話を聞くのは、ある意味でいちばんやっかいです。相手が相談者だと話を聞くのは一時間の枠内ですが、身内となると時間は無制限だからです。』
『プロのカウンセラーの聞く技術』東山紘久著

 東山紘久氏が、人の話を聞いている途中で、「しかし」、「けれど」とか「でも」という、逆説の接続詞や接続助詞が出てきたら、それはプロの聞き手としは失格だと言っています。しかもそれは、逆説の接続詞を実際に口にしたら失格だというようなレベルではなく、聞き手として、相手に対して「しかし」とか「でも」といったような反発モード的な心の状態になった瞬間に失格だという意味です。プロカウンセラーの凄味のようなものを感じさせられます。ベテランになればなるほど、カウンセラーはListenするだけで、殆どAskする事はないそうです。それが出来るためには、相手がこの人(カウンセラー)だったら、心の悩みを相談することが出来るという気持ちになれるような、自分から語り出すことが出来るようなプレゼンスとしてカウンセラーが機能しなければならない訳で並大抵な事でないと思います。

 人の話を聞くという姿勢の対極的場面としてテレビの政治討論があると思います。相手を論破する為に初めから反発モードで、討論というよりは互いに自己主張しているだけの不毛な状況です。
 「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」。政治とは正に、小人の衆といった観があります。君子というのは一つの理想像であって、現実の政治に於いて君子でいられる人間はいないというのが人間の性のような気がします。

 『村(高森草庵)で、インドの若者とアメリカの若者が共同生活を始めました。ある日、アメリカの若者が訴えに来ました。
「インド人とは、とても一緒に暮らせない」
「何故?」
「だって、あいつらはどこにでも小便をするんだもの!」
翌日、インドの若者が訴えに来ました。
「アメリカ人とは、とても共同生活は出来ない」
「どうして?」
「だって、あいつらは小便をしたあと、決して手を洗わないんだ!」
 両方とも自分が正しいということについて、少しも疑っていません。相手の立場に共感しようなどという余裕は、微塵もあらばこそ。両者の訴えでは、インド人の方がもう少し深刻でしょう。アメリカ人の訴えは衛生上の不潔感に基づいていますが、インド人の場合には宗教的不潔感が関連しているからです。
 この山の共同生活でも、正しい食生活についての論争が続きました。
 生物化学を専攻していたアメリカ人青年が、塩の使い方が多すぎる、といって批判しました。一方、料理を勉強してきた日本人女性達は一歩も譲りません。塩だけではなく、アメリカ人は玄米とごまを要求します。他の人々は米は五分づき。彼女達は手間が倍近くなるのを引受けて、彼に玄米やごまを用意すますが、時々遅くなります。最も正統派たるべき食事が二の次にされるのが、彼には不満のようです。それやこれやで、互いの感情が円満でなくなったとき、私は一つの実話を話しました。
 日本青年協力隊々員の一人が、インドで農業指導をしました。こうすれば生産は倍になる、ということで手とり足とり教えました。いいえ、教えたつもりでした。ところが、一向に実行してくれない。その気配もない。それで彼はもう一度、教えようとしました。すると、向こうの人達はもう我慢できない。というわけで、彼の手足を縛って川の中へ放りこみました。彼の怒りようといったら大変なもの。
 「ひでえやつらだ。ひとがせっかく親切に教えてやろうというのに!」
 インドの農民は言いました。
 「全く、ひでえやつだ。俺達には俺達の伝来のやり方があり、受けついだ知恵があるのに自分のところのやり方を押しつけようとしやがって。黙っておとなしく聞いていれば、いい気になりやがる。いい気のなるにも程があらぁ!」
 この話をした反応が、また面白かった。アメリカの青年はうれしげに、私に尋ねました。
 「あとでその日本人はどうなりましたか。自分の非を悟ったでしょうか」
 彼女達は言いました。
 「彼は結局、わからなかったみたいね。おかしいわね」
 自分のための話でもあったとは、夢にも思いつきません。

 人間は皆、地表に穴を掘りあけない特別なもぐら、です。気付かぬうちに自分が絶対だ、と思うのです。』
『藍の水』押田茂人神父著

人間は他の動物と違って言葉というシンボルを多彩に操り、他者との交流を行っているが、逆にその事で上滑りのような状況を作り出してしまい、哀しいほど人の話を聞く事の出来ない生き物なのかも知れない。夫婦、親子や兄弟といった間に於いてすら「和して同ぜず」といった関係性を築けている人が果たしてどれ位いるのであろうか。むしろ、どんな人間関係よりもよりハードルが高いような気もする。お互いの自律性のレベルによって、その家族の「和して同ぜず」~「同じて和せず(共依存)」といった関係性の偏差値が決まってくるのであろう。
人の話をしっかりと聞くことができるためには、相手に対する深い思い遣りと自他の区別を確りと保つことのできる自律性の確立が要請されているのだと思います。対人援助職という立場にいる身としては、君子などという途方もない地平はさて置いて、せめてもぐらの住人として定住してしまわないよう、とぼとぼと歩んでいきたいと思います。
  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 08:51コメント(0)
ケアプランふくしあ-居宅介護支援

2017年10月18日

秋を感じるもの

こんにちはface_02
10月も後半戦に突入しました。今年もあと2か月半face_08
今は毎日1日の重みや大切さを感じながら仕事に駆けずり回っています!
ところで、皆様の周りに、秋 は見えますか?
風景であったり、食べ物であったり、服装であったり…虫の声?

紅葉

ハロウイン

暑い夏から解放され、ようやく過ごしやすい季節になったと思っていたら、この数日の寒さ!!
通勤が自転車の私としては朝に晩に骨身にしみます。
巷ではすでにインフルエンザの流行の話が入ってきています。外から帰ったら手洗いうがいは忘れずに

この短い秋、1日を大切に過ごしましょう。天気の良い日は散歩をしながら秋を探してみてください。
こんな秋が見つかりましたとコメントをいただけたら嬉しいです。

ではまた来週に…ケアプランふくしあ 檜木でした。


  


Posted by ふくしあ-セブンスマイル at 18:17コメント(2)
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