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2017年10月25日
人の話を聞くことの難しさ
『いくら親しい人との楽しいおしゃべりでも、一方的に聞き手にならなければならないときは疲れるのです。職場でも、家庭でも、このようなことはけっこうあるもので、上の者が下の者の話を聞くのがいいのですが、実際には逆のことのほうが多いのです。上司と飲んだときは、家に帰ってからそれを吐き、あらためて家で飲み直さないと眠れないという人がいましたが、これは上司の、酒ではなくて話が飲みこめなかったからです。飲みこめない話をたくさん聞かされると、本当に下痢をする人もいます。話を自分なりに消化できなかったからです。
母親から、祖母や父親のぐちを聞かされつづけた子どもには、心理的な症状が出ることが知られていますが、このように心理的症状を出す人の多くは、家族の葛藤の調整役をしています。調整役とは家族の話の聞き手です。消化できない話や納得できない話をじっと聞かされると、聞いた人が苦しむのです。
プロのカウンセラーにしても、自分の身内の話を聞くのは、ある意味でいちばんやっかいです。相手が相談者だと話を聞くのは一時間の枠内ですが、身内となると時間は無制限だからです。』
『プロのカウンセラーの聞く技術』東山紘久著
東山紘久氏が、人の話を聞いている途中で、「しかし」、「けれど」とか「でも」という、逆説の接続詞や接続助詞が出てきたら、それはプロの聞き手としは失格だと言っています。しかもそれは、逆説の接続詞を実際に口にしたら失格だというようなレベルではなく、聞き手として、相手に対して「しかし」とか「でも」といったような反発モード的な心の状態になった瞬間に失格だという意味です。プロカウンセラーの凄味のようなものを感じさせられます。ベテランになればなるほど、カウンセラーはListenするだけで、殆どAskする事はないそうです。それが出来るためには、相手がこの人(カウンセラー)だったら、心の悩みを相談することが出来るという気持ちになれるような、自分から語り出すことが出来るようなプレゼンスとしてカウンセラーが機能しなければならない訳で並大抵な事でないと思います。
人の話を聞くという姿勢の対極的場面としてテレビの政治討論があると思います。相手を論破する為に初めから反発モードで、討論というよりは互いに自己主張しているだけの不毛な状況です。
「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」。政治とは正に、小人の衆といった観があります。君子というのは一つの理想像であって、現実の政治に於いて君子でいられる人間はいないというのが人間の性のような気がします。
『村(高森草庵)で、インドの若者とアメリカの若者が共同生活を始めました。ある日、アメリカの若者が訴えに来ました。
「インド人とは、とても一緒に暮らせない」
「何故?」
「だって、あいつらはどこにでも小便をするんだもの!」
翌日、インドの若者が訴えに来ました。
「アメリカ人とは、とても共同生活は出来ない」
「どうして?」
「だって、あいつらは小便をしたあと、決して手を洗わないんだ!」
両方とも自分が正しいということについて、少しも疑っていません。相手の立場に共感しようなどという余裕は、微塵もあらばこそ。両者の訴えでは、インド人の方がもう少し深刻でしょう。アメリカ人の訴えは衛生上の不潔感に基づいていますが、インド人の場合には宗教的不潔感が関連しているからです。
この山の共同生活でも、正しい食生活についての論争が続きました。
生物化学を専攻していたアメリカ人青年が、塩の使い方が多すぎる、といって批判しました。一方、料理を勉強してきた日本人女性達は一歩も譲りません。塩だけではなく、アメリカ人は玄米とごまを要求します。他の人々は米は五分づき。彼女達は手間が倍近くなるのを引受けて、彼に玄米やごまを用意すますが、時々遅くなります。最も正統派たるべき食事が二の次にされるのが、彼には不満のようです。それやこれやで、互いの感情が円満でなくなったとき、私は一つの実話を話しました。
日本青年協力隊々員の一人が、インドで農業指導をしました。こうすれば生産は倍になる、ということで手とり足とり教えました。いいえ、教えたつもりでした。ところが、一向に実行してくれない。その気配もない。それで彼はもう一度、教えようとしました。すると、向こうの人達はもう我慢できない。というわけで、彼の手足を縛って川の中へ放りこみました。彼の怒りようといったら大変なもの。
「ひでえやつらだ。ひとがせっかく親切に教えてやろうというのに!」
インドの農民は言いました。
「全く、ひでえやつだ。俺達には俺達の伝来のやり方があり、受けついだ知恵があるのに自分のところのやり方を押しつけようとしやがって。黙っておとなしく聞いていれば、いい気になりやがる。いい気のなるにも程があらぁ!」
この話をした反応が、また面白かった。アメリカの青年はうれしげに、私に尋ねました。
「あとでその日本人はどうなりましたか。自分の非を悟ったでしょうか」
彼女達は言いました。
「彼は結局、わからなかったみたいね。おかしいわね」
自分のための話でもあったとは、夢にも思いつきません。
人間は皆、地表に穴を掘りあけない特別なもぐら、です。気付かぬうちに自分が絶対だ、と思うのです。』
『藍の水』押田茂人神父著
人間は他の動物と違って言葉というシンボルを多彩に操り、他者との交流を行っているが、逆にその事で上滑りのような状況を作り出してしまい、哀しいほど人の話を聞く事の出来ない生き物なのかも知れない。夫婦、親子や兄弟といった間に於いてすら「和して同ぜず」といった関係性を築けている人が果たしてどれ位いるのであろうか。むしろ、どんな人間関係よりもよりハードルが高いような気もする。お互いの自律性のレベルによって、その家族の「和して同ぜず」~「同じて和せず(共依存)」といった関係性の偏差値が決まってくるのであろう。
人の話をしっかりと聞くことができるためには、相手に対する深い思い遣りと自他の区別を確りと保つことのできる自律性の確立が要請されているのだと思います。対人援助職という立場にいる身としては、君子などという途方もない地平はさて置いて、せめてもぐらの住人として定住してしまわないよう、とぼとぼと歩んでいきたいと思います。
母親から、祖母や父親のぐちを聞かされつづけた子どもには、心理的な症状が出ることが知られていますが、このように心理的症状を出す人の多くは、家族の葛藤の調整役をしています。調整役とは家族の話の聞き手です。消化できない話や納得できない話をじっと聞かされると、聞いた人が苦しむのです。
プロのカウンセラーにしても、自分の身内の話を聞くのは、ある意味でいちばんやっかいです。相手が相談者だと話を聞くのは一時間の枠内ですが、身内となると時間は無制限だからです。』
『プロのカウンセラーの聞く技術』東山紘久著
東山紘久氏が、人の話を聞いている途中で、「しかし」、「けれど」とか「でも」という、逆説の接続詞や接続助詞が出てきたら、それはプロの聞き手としは失格だと言っています。しかもそれは、逆説の接続詞を実際に口にしたら失格だというようなレベルではなく、聞き手として、相手に対して「しかし」とか「でも」といったような反発モード的な心の状態になった瞬間に失格だという意味です。プロカウンセラーの凄味のようなものを感じさせられます。ベテランになればなるほど、カウンセラーはListenするだけで、殆どAskする事はないそうです。それが出来るためには、相手がこの人(カウンセラー)だったら、心の悩みを相談することが出来るという気持ちになれるような、自分から語り出すことが出来るようなプレゼンスとしてカウンセラーが機能しなければならない訳で並大抵な事でないと思います。
人の話を聞くという姿勢の対極的場面としてテレビの政治討論があると思います。相手を論破する為に初めから反発モードで、討論というよりは互いに自己主張しているだけの不毛な状況です。
「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」。政治とは正に、小人の衆といった観があります。君子というのは一つの理想像であって、現実の政治に於いて君子でいられる人間はいないというのが人間の性のような気がします。
『村(高森草庵)で、インドの若者とアメリカの若者が共同生活を始めました。ある日、アメリカの若者が訴えに来ました。
「インド人とは、とても一緒に暮らせない」
「何故?」
「だって、あいつらはどこにでも小便をするんだもの!」
翌日、インドの若者が訴えに来ました。
「アメリカ人とは、とても共同生活は出来ない」
「どうして?」
「だって、あいつらは小便をしたあと、決して手を洗わないんだ!」
両方とも自分が正しいということについて、少しも疑っていません。相手の立場に共感しようなどという余裕は、微塵もあらばこそ。両者の訴えでは、インド人の方がもう少し深刻でしょう。アメリカ人の訴えは衛生上の不潔感に基づいていますが、インド人の場合には宗教的不潔感が関連しているからです。
この山の共同生活でも、正しい食生活についての論争が続きました。
生物化学を専攻していたアメリカ人青年が、塩の使い方が多すぎる、といって批判しました。一方、料理を勉強してきた日本人女性達は一歩も譲りません。塩だけではなく、アメリカ人は玄米とごまを要求します。他の人々は米は五分づき。彼女達は手間が倍近くなるのを引受けて、彼に玄米やごまを用意すますが、時々遅くなります。最も正統派たるべき食事が二の次にされるのが、彼には不満のようです。それやこれやで、互いの感情が円満でなくなったとき、私は一つの実話を話しました。
日本青年協力隊々員の一人が、インドで農業指導をしました。こうすれば生産は倍になる、ということで手とり足とり教えました。いいえ、教えたつもりでした。ところが、一向に実行してくれない。その気配もない。それで彼はもう一度、教えようとしました。すると、向こうの人達はもう我慢できない。というわけで、彼の手足を縛って川の中へ放りこみました。彼の怒りようといったら大変なもの。
「ひでえやつらだ。ひとがせっかく親切に教えてやろうというのに!」
インドの農民は言いました。
「全く、ひでえやつだ。俺達には俺達の伝来のやり方があり、受けついだ知恵があるのに自分のところのやり方を押しつけようとしやがって。黙っておとなしく聞いていれば、いい気になりやがる。いい気のなるにも程があらぁ!」
この話をした反応が、また面白かった。アメリカの青年はうれしげに、私に尋ねました。
「あとでその日本人はどうなりましたか。自分の非を悟ったでしょうか」
彼女達は言いました。
「彼は結局、わからなかったみたいね。おかしいわね」
自分のための話でもあったとは、夢にも思いつきません。
人間は皆、地表に穴を掘りあけない特別なもぐら、です。気付かぬうちに自分が絶対だ、と思うのです。』
『藍の水』押田茂人神父著
人間は他の動物と違って言葉というシンボルを多彩に操り、他者との交流を行っているが、逆にその事で上滑りのような状況を作り出してしまい、哀しいほど人の話を聞く事の出来ない生き物なのかも知れない。夫婦、親子や兄弟といった間に於いてすら「和して同ぜず」といった関係性を築けている人が果たしてどれ位いるのであろうか。むしろ、どんな人間関係よりもよりハードルが高いような気もする。お互いの自律性のレベルによって、その家族の「和して同ぜず」~「同じて和せず(共依存)」といった関係性の偏差値が決まってくるのであろう。
人の話をしっかりと聞くことができるためには、相手に対する深い思い遣りと自他の区別を確りと保つことのできる自律性の確立が要請されているのだと思います。対人援助職という立場にいる身としては、君子などという途方もない地平はさて置いて、せめてもぐらの住人として定住してしまわないよう、とぼとぼと歩んでいきたいと思います。
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