2016年12月27日

補助線

 人間は、自分自身の身の処し方を模索し、ある指針を見出そうとする時に、何らかの補助線を必要とする。本来、補助線の引き方というものは、それぞれの民族において宗教的文化伝承の中に引き継がれてきたはずだが、日本の場合、敗戦と近代化ということが重なって、補助線の引き方の指針となる文化伝承を社会は既に失っている。補助線を失った社会は地盤沈下を起こす。(福島原発は完全にアンダーコントロールされている。南スーダンは永田町よりはかなり危険だ。等々、政治の世界ではこの問題が見事に反映されている。)それでいて、このような問題を思考的に深化させていくようなトレーニングを受ける教育的機会が日本社会にある訳でもない。

 敗戦前後までは国民の約50%が第1次産業に従事していた。山川草木国土悉皆成仏といったような感性が自然に涵養されていた。また、電化される前の家事労働は全て手作業であった。日常の生活を送ること自体の中に行的な要素が組み込まれており、そのことが人格を陶冶していた。現在では、第1次産業従事者は、5%未満である。そして日常の家事労働はボダン操作が中心である。人工を超えたものを畏怖する感性が研ぎ澄まされるような環境も無ければ、日常生活の中で、自ずから人格が陶冶されるなどということも、今の日本ではまず無い。山川草木国土悉皆成仏といったような感性を本当に身に沁みて持っている日本人は、もはや絶滅危惧種みたいなものである。明治生まれの祖母は濃厚な土の香りのする人だった。もはやそのような人と出会うことはないと思う。

 陰徳を積むというという考え方の根底には、人生はこの世的なものだけで成り立っているのではないという、日本人の場合は思想性というより感性といったようなものが前提になって来たが、もはやそれも当てにならない。人生をこの世のみと観ずるか、あるいは、あの世と連綿とつながったものと観ずるかによって、生き方は大きく変わる。人間は、この世的ないし近代合理主義のみの価値観で生きれば生き方が下品になる。一方、彼岸的ないし神秘主義のみの価値観で生きれば、現実吟味能力を欠いた生き方になる。此岸に比重を置けばエゴが全面に出てくるし、彼岸に比重を置けばエゴが拡散してしまう。ではどうすればよいのか。自分で考えるしかない。現代は、各個人がそれぞれ自己責任において補助線の引き方から自分自身で見出していくしかない、という途方もない状況を生きて行かなければならないのかも知れない。補助線の引き方に絶対的な正解などというものは無いが、質の良し悪しはある。そう遠くはない将来、敬老される側に立つ身とすれば、その時、敬老されるに相応しい人間に果たしてなれているかどうか? また、年を取る。下品な人間にならぬよう一年一年、補助線の引き方をブラッシュアップしていかねば。


歴史の突端に立つ子供達

紺青の海の向ふから大きな朝日の正月が昇る。
新しい年を迎へた子供達が真赤に昇る。
あれは朝日で正月で子供達だ。
子供達は待たれてゐる、呼ばれてゐる、招かれてゐる。
真赤な正月だ。真赤な子供だ。真赤な自分だ。
真更に光つて、ふくらんで、燃えて、今こそ昇る。
どんな自分を見付けるか今年。
どんな自分を貰ふか今年。

河井寛次郎「六十年前の今」より

ケアプランふくしあ 木藤


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