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2017年05月26日
クロノスとカイロス
人生80年生きるとすると、人に与えられた一生の日数は29,200日(除閏年)、時間は700,800時間(約4,200万分、約25億秒)です。ちょっとタバコを一服5分、それを1日10回、それは健康を害する上に1日3000秒(40年喫煙した場合4,380万秒;約1年4ヶ月)の無駄遣いです。ちょっと立ち話のつもりがあっという間の2時間、なんと7200秒の無駄使い。そんなことはもう止めて、その3000秒、7200秒は「時間貯蓄銀行」に預けましょう。ミヒャエル・エンデの「モモ」である。この作品は、時は金なりのメタファーでもある。
民俗学の世界から介護の世界に入られた六車由実という方が民俗学で培った聞き書き調査を応用した「驚きの介護民俗学」という本を出版されています。その著書の中に次のような事が記されていました。『同僚の介護士から、「話を聞くことが介護なの?・・・(略)・・・そんな事していたら仕事がまわらないじゃない。・・・(略)・・・」そんな事を言うのは介護士として失格だと思った。その人の生き方を知ることこそ介護の基本じゃないか、と思っていたからだ。けれど、現場の業務に追われるなかで、結局自分も同じになっている。一方で、自分自身の介護技術の向上に伴って、技術的な達成感の喜びは強く感じるようになっていった。しかし、そこで感じる介護の喜びは、これまでの利用者との関係のなかで感じられるものとは明らかに異なる。極端に言えば、利用者と接しているのに、そこには利用者の存在が希薄となっている。ただ自分の技術に酔っているだけなのだ。驚きのままに聞き書きを進めていたときに、目の前に利用者の背負ってきた歴史が立体的に浮かび上がってきて、利用者の人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった。』
人が集まって何かを制度化し組織的活動をするときには、そこは、客観的に計れる時間、定量化された時間、クロノスが支配している。一方、各個人にとっての時間には一回限りの質を伴う歴史的時間、定量化できない時間、カイロスがある。ケアとは本来、カイロスに於ける出会いである。いわゆる一期一会である。しかし制度化された中での介護業務は時間管理を要求する。従って例えどんなに良い制度であったとしても、クロノスとカイロスの矛盾は生じてしまう。そこに本当に現場の突端にいる介護士、特に心ある介護士であればある程、その矛盾に苦しむ。その葛藤を少しでも軽減する為には、制度に遊びを許すゆとりが必要なのである。しかし、経済的合理性に最大の価値を置いている現代社会ではカイロス的時間は無駄として評価されない。
フッサールが指摘していることだが、16世紀にガリレオ・ガリレイが振り子の原理を応用した振り子時計によって、かつては地球の自転や公転などに基づく自然とつながった生活実感を伴う天文学的な定義だった時間を測定する技術を手にいれた。そしてそれ以降、人間はひたすら自然の数学化を推し進めて来た。現在の1秒の長さの定義は、セシウム原子の固有の振動数9,192,631,770回を1秒としています。このセシウム原子時計でも、3,000万年に1秒の誤差を生じるそうです。現在、さらに光格子時計という新たな基準が構想されているそうです。この時計は140億年で誤差が100秒しか生じないそうです。
近代以前の社会では、昼と夜、ケとハレなど状況によって時間は均質ではなくもっと多義的なものだった。今は日常の生活感覚とまったく結びつかない均質で抽象的時間が逆に私たちの日常生活を支配しているような状況が作られてしまっている。今、証券取引では、コンピューターが1,000分の1秒単位で為替、資源情報、政治情勢などを判断して、「適切な銘柄、株数、価格」を発注するという。アメリカの証券会社では少しでも情報伝達速度を上げるためにネットワークを結ぶケーブルを出来るだけ直線になるようインフラを整備している所もあるそうです。超一瞬でも早くいい銘柄を見つけて動くことが利益を上げる上で今の証券取引にとって重要な戦略になっているそうです。
何か、私には狂気の沙汰のような気がしています。時間の測定技術を研ぎ澄ました先にどんな社会がもたらされてくるのでしょうか。超抽象的時間に生を適応させて生きて行かなければならない社会が疎外しているのは、子供と老人です。時間管理がシビアな日本で少子化が止まらない、老齢人口が増えて困った困ったの大合唱が起こっている、この事は疎外している証左だと思っています。逆に言えば、このクロノス的世界観に収まりきらない代表的な人達は子供と老人という事です。ならば日本だけでなく全世界的に老齢人口が増えて、今の社会システムからはみ出す人達がどんどん増加して行くことは一つの希望であり、このクロノス的社会を打破してくれるかもしれない光明なのではなかと密な期待感をもって私は仕事をしています。
いでよ、モモ太郎じいさんず・モモ子ばあさんず!
ケアプランふくしあ 木藤
民俗学の世界から介護の世界に入られた六車由実という方が民俗学で培った聞き書き調査を応用した「驚きの介護民俗学」という本を出版されています。その著書の中に次のような事が記されていました。『同僚の介護士から、「話を聞くことが介護なの?・・・(略)・・・そんな事していたら仕事がまわらないじゃない。・・・(略)・・・」そんな事を言うのは介護士として失格だと思った。その人の生き方を知ることこそ介護の基本じゃないか、と思っていたからだ。けれど、現場の業務に追われるなかで、結局自分も同じになっている。一方で、自分自身の介護技術の向上に伴って、技術的な達成感の喜びは強く感じるようになっていった。しかし、そこで感じる介護の喜びは、これまでの利用者との関係のなかで感じられるものとは明らかに異なる。極端に言えば、利用者と接しているのに、そこには利用者の存在が希薄となっている。ただ自分の技術に酔っているだけなのだ。驚きのままに聞き書きを進めていたときに、目の前に利用者の背負ってきた歴史が立体的に浮かび上がってきて、利用者の人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった。』
人が集まって何かを制度化し組織的活動をするときには、そこは、客観的に計れる時間、定量化された時間、クロノスが支配している。一方、各個人にとっての時間には一回限りの質を伴う歴史的時間、定量化できない時間、カイロスがある。ケアとは本来、カイロスに於ける出会いである。いわゆる一期一会である。しかし制度化された中での介護業務は時間管理を要求する。従って例えどんなに良い制度であったとしても、クロノスとカイロスの矛盾は生じてしまう。そこに本当に現場の突端にいる介護士、特に心ある介護士であればある程、その矛盾に苦しむ。その葛藤を少しでも軽減する為には、制度に遊びを許すゆとりが必要なのである。しかし、経済的合理性に最大の価値を置いている現代社会ではカイロス的時間は無駄として評価されない。
フッサールが指摘していることだが、16世紀にガリレオ・ガリレイが振り子の原理を応用した振り子時計によって、かつては地球の自転や公転などに基づく自然とつながった生活実感を伴う天文学的な定義だった時間を測定する技術を手にいれた。そしてそれ以降、人間はひたすら自然の数学化を推し進めて来た。現在の1秒の長さの定義は、セシウム原子の固有の振動数9,192,631,770回を1秒としています。このセシウム原子時計でも、3,000万年に1秒の誤差を生じるそうです。現在、さらに光格子時計という新たな基準が構想されているそうです。この時計は140億年で誤差が100秒しか生じないそうです。
近代以前の社会では、昼と夜、ケとハレなど状況によって時間は均質ではなくもっと多義的なものだった。今は日常の生活感覚とまったく結びつかない均質で抽象的時間が逆に私たちの日常生活を支配しているような状況が作られてしまっている。今、証券取引では、コンピューターが1,000分の1秒単位で為替、資源情報、政治情勢などを判断して、「適切な銘柄、株数、価格」を発注するという。アメリカの証券会社では少しでも情報伝達速度を上げるためにネットワークを結ぶケーブルを出来るだけ直線になるようインフラを整備している所もあるそうです。超一瞬でも早くいい銘柄を見つけて動くことが利益を上げる上で今の証券取引にとって重要な戦略になっているそうです。
何か、私には狂気の沙汰のような気がしています。時間の測定技術を研ぎ澄ました先にどんな社会がもたらされてくるのでしょうか。超抽象的時間に生を適応させて生きて行かなければならない社会が疎外しているのは、子供と老人です。時間管理がシビアな日本で少子化が止まらない、老齢人口が増えて困った困ったの大合唱が起こっている、この事は疎外している証左だと思っています。逆に言えば、このクロノス的世界観に収まりきらない代表的な人達は子供と老人という事です。ならば日本だけでなく全世界的に老齢人口が増えて、今の社会システムからはみ出す人達がどんどん増加して行くことは一つの希望であり、このクロノス的社会を打破してくれるかもしれない光明なのではなかと密な期待感をもって私は仕事をしています。
いでよ、モモ太郎じいさんず・モモ子ばあさんず!
ケアプランふくしあ 木藤
2017年05月18日
爽やかな5月
事務所の窓から 桜の木が見えるのですが緑が鮮やかで本当に気持ちいいです
木々の緑とつつじのピンク色…PCを打ちながら窓の外を見て少しの休憩も!
今年は長く桜を楽しむことができましたが、今は季節が春から初夏へ・・・
ただ日によって、まだ朝晩は寒い日もありますので、皆様体調管理だけはお気を付けて。
洋服で調整する、汗をかいたら拭く、水分を取る等々
さて、今日は第3木曜日。デイサービス『ふくしあの家』でオレンジカフェが開かれていました!!
エレクトーンの音色と、素敵な歌声がとても心地よく
私自身もとても癒されました
吉川市では、いろいろな場所でオレンジカフェやサロンなど開催し、様々な方との
情報交換や相談の場として利用できるようになってきました。すばらしいことです。
もっともっと気楽に足が運べて、小さなことでも相談しやすい場!!になりますように
話しは変わりますが
ケアプランふくしあも今はケアマネージャーが3人います。
日々利用者様と向き合う中で一緒に悩み、相談をしながらすすめています。
こちらでも、いつでもご相談してください。まずはお電話お待ちしています。
ケアプランふくしあ 檜木
木々の緑とつつじのピンク色…PCを打ちながら窓の外を見て少しの休憩も!
今年は長く桜を楽しむことができましたが、今は季節が春から初夏へ・・・
ただ日によって、まだ朝晩は寒い日もありますので、皆様体調管理だけはお気を付けて。
洋服で調整する、汗をかいたら拭く、水分を取る等々
さて、今日は第3木曜日。デイサービス『ふくしあの家』でオレンジカフェが開かれていました!!
エレクトーンの音色と、素敵な歌声がとても心地よく
私自身もとても癒されました
吉川市では、いろいろな場所でオレンジカフェやサロンなど開催し、様々な方との
情報交換や相談の場として利用できるようになってきました。すばらしいことです。
もっともっと気楽に足が運べて、小さなことでも相談しやすい場!!になりますように
話しは変わりますが
ケアプランふくしあも今はケアマネージャーが3人います。
日々利用者様と向き合う中で一緒に悩み、相談をしながらすすめています。
こちらでも、いつでもご相談してください。まずはお電話お待ちしています。
ケアプランふくしあ 檜木
2017年05月11日
0と1
『ほんとうの供養』
世の中には、働きたいと思っても働けない人がいる。身体や精神の障害があるために、なかなか働けないのである。私がお会いする方たちのなかにはそんな人がおられる。病院に入院しているが、病院内での軽作業くらいならできる、という程度の方が、次のようなことを言われた。
自分は最近、母を亡くしたが、自分は今は何の収入もないので、母のために何かするということはできない。しかし、院内の作業で、入院中の老人たちのためにおむつをたたんで整理する仕事をしているとき、そのおむつのひとつひとつを扱うのが、母への供養と思ってやっている、というのである。
この話を聞いて、この方の母を思う気持ちの深さに心を打たれたが、それに加えて思ったことは、その病院内で、おそらく「寝たきり」などと言われている老人の方々が、この人の母への供養に貢献しておられる、ということである。何もせず寝ていて、おむつをかえてもらっているだけと思う人もあろう。 しかし、私には、そのような老人の一人一人のたましいが、母を失った人の心を慰め、その供養に日夜参加している、というイメージがみえてくるのである。
毎日働けることはありがたいことだ。それによって、われわれはお金や物や多くのものを得ている。しかし、誰かの供養のためにほんとうに参加するなどということをしているだろうか。
河合隼雄 平成3年読売新聞夕刊コラムより
『抱く』
生まれたばかりの道人を 両腕に抱いて正座する
道人という 人間の名前をつけられてはいるけれども
腕の内にあるものは
深く静けく 深くやさしい ひとつの振動である
神の現前である
人の名で呼ぶには いかにも惜しい
人の声で呼ぶには いかにも惜しい
生まれたばかりの赤ちゃんを 両腕に抱いて正座する
山尾 三省 詩集「びろう葉帽子の下で」より
「命がやっていることは『伸びて縮んで』それだけである。」これはスリランカの僧侶アルボムッレ・スマナサーラのコトバである。卓見だと思う。人生複雑に思うけれど原理はいたって単純である。「伸びて縮んで」「0と1」「offとon」の多重構造である。私たちは外界や体内からの色々な刺激(X)を求心路を介して入力し、それを脳で情報処理し信号(Y)として遠心路を介して効果器(筋肉)に出力している。この「0と1」の信号が骨格筋に伝達されなくなったものがALSである。まさに骨格筋の伸び縮みが出来なくなったそれだけの事である。しかし、それがどれほど大変なことか。
人間この世に産まれて来て生きる為にまず産声を上げる。自発呼吸である。「0と1」の現前である。だが、私たちは剥き出しの命のままでは生きていけない。成長と共に社会の中で生きていく上でいろいろなペルソナを身につけ社会的活動を行っていく。やがて老い社会の一線から退き私たちはいろいろなペルソナを失(剥奪・解放)い、最後は衰弱し下顎呼吸を呈し剥き出しの命となり、やがて「伸びて縮んで」が出来なくなりこの世を去っていく。
人間どんなに威張ってみたところでも、あるいはどんなに卑下してみたところでも、やっていることは、「伸びて縮んで、伸びて縮んで」「0と1、offとon」それだけである。
鼓動・呼吸・蠕動・脳波などといった命の振動が奏でる基層低音を深く観取することが出来たならば、人は命の絶対的平等性という地平を闢くことができるのであろうか。ただ、現代という時代はこの命の振動が奏でる幽き基層低音に耳を澄ますにはあまりにも人工物に囲まれ自然から遊離してしまっている社会だと思う。命の振動への眼差しを醸成し難い社会に於いて、少子化が進行するのはパラレルな関係にあるように思えてならない。
ケアプランふくしあ 木藤
世の中には、働きたいと思っても働けない人がいる。身体や精神の障害があるために、なかなか働けないのである。私がお会いする方たちのなかにはそんな人がおられる。病院に入院しているが、病院内での軽作業くらいならできる、という程度の方が、次のようなことを言われた。
自分は最近、母を亡くしたが、自分は今は何の収入もないので、母のために何かするということはできない。しかし、院内の作業で、入院中の老人たちのためにおむつをたたんで整理する仕事をしているとき、そのおむつのひとつひとつを扱うのが、母への供養と思ってやっている、というのである。
この話を聞いて、この方の母を思う気持ちの深さに心を打たれたが、それに加えて思ったことは、その病院内で、おそらく「寝たきり」などと言われている老人の方々が、この人の母への供養に貢献しておられる、ということである。何もせず寝ていて、おむつをかえてもらっているだけと思う人もあろう。 しかし、私には、そのような老人の一人一人のたましいが、母を失った人の心を慰め、その供養に日夜参加している、というイメージがみえてくるのである。
毎日働けることはありがたいことだ。それによって、われわれはお金や物や多くのものを得ている。しかし、誰かの供養のためにほんとうに参加するなどということをしているだろうか。
河合隼雄 平成3年読売新聞夕刊コラムより
『抱く』
生まれたばかりの道人を 両腕に抱いて正座する
道人という 人間の名前をつけられてはいるけれども
腕の内にあるものは
深く静けく 深くやさしい ひとつの振動である
神の現前である
人の名で呼ぶには いかにも惜しい
人の声で呼ぶには いかにも惜しい
生まれたばかりの赤ちゃんを 両腕に抱いて正座する
山尾 三省 詩集「びろう葉帽子の下で」より
「命がやっていることは『伸びて縮んで』それだけである。」これはスリランカの僧侶アルボムッレ・スマナサーラのコトバである。卓見だと思う。人生複雑に思うけれど原理はいたって単純である。「伸びて縮んで」「0と1」「offとon」の多重構造である。私たちは外界や体内からの色々な刺激(X)を求心路を介して入力し、それを脳で情報処理し信号(Y)として遠心路を介して効果器(筋肉)に出力している。この「0と1」の信号が骨格筋に伝達されなくなったものがALSである。まさに骨格筋の伸び縮みが出来なくなったそれだけの事である。しかし、それがどれほど大変なことか。
人間この世に産まれて来て生きる為にまず産声を上げる。自発呼吸である。「0と1」の現前である。だが、私たちは剥き出しの命のままでは生きていけない。成長と共に社会の中で生きていく上でいろいろなペルソナを身につけ社会的活動を行っていく。やがて老い社会の一線から退き私たちはいろいろなペルソナを失(剥奪・解放)い、最後は衰弱し下顎呼吸を呈し剥き出しの命となり、やがて「伸びて縮んで」が出来なくなりこの世を去っていく。
人間どんなに威張ってみたところでも、あるいはどんなに卑下してみたところでも、やっていることは、「伸びて縮んで、伸びて縮んで」「0と1、offとon」それだけである。
鼓動・呼吸・蠕動・脳波などといった命の振動が奏でる基層低音を深く観取することが出来たならば、人は命の絶対的平等性という地平を闢くことができるのであろうか。ただ、現代という時代はこの命の振動が奏でる幽き基層低音に耳を澄ますにはあまりにも人工物に囲まれ自然から遊離してしまっている社会だと思う。命の振動への眼差しを醸成し難い社会に於いて、少子化が進行するのはパラレルな関係にあるように思えてならない。
ケアプランふくしあ 木藤
2017年05月04日
正さという病
毎月、皆様のご自宅を訪問させて頂き面談など行う私たちケアマネジャーの仕事は、対人援助職などと言われ、基本的に介護上何らかの課題(問題)を抱えている方を対象として活動しています。
この仕事をしていれば、誰でも多かれ少なかれいわゆる困難事例(虐待・困窮・独居・認知症の老々介護等)と呼ばれるようなケースに遭遇します。色々な問題が次から次へと発生し、かつ、それに対して有効な対応が取れず、不全感だけが募ってくることがあります。
精神科医の春日武彦医師は、援助者側が不全感を強く抱く時、それは援助者側が描いている「こうあるべきだという生活状況」にクライアント(利用者)を持って行こうとするコントロール願望が根底にありそれが強すぎるのではないかと指摘されています。言い換えれば権力欲かも知れません。
厄介なことにこのコントロール願望は善意との親和性が高く、対人援助場面では混然一体となって作用している。善意の裏には「私は正しいことをしている」という妙なスケベ根性みたいなものと他人に認めてもらいたいという「承認欲求」が影のように張り付いている。善意が相手と噛み合っている内はいいが、いったんボタンの掛け違いのような状態に陥ると、援助者側は「私はあなたの為にこんなに頑張っているのに」、一方相手方は「余計なことをしていい迷惑だ」という状況が醸成されてしまう。最悪、憎悪だけが残る事になってしまう。場が影に支配されてしまったようなものである。この構図は親子関係にも当てはまる。親が子供に対して。あるいは子供が介護が必要になった親に対して。逃げ場のない家族介護が時に地獄と化す所以である。コントロール願望や善意といったものに付きまとう影は自覚し難く、人間関係に於いて非常に根深い問題であり、この問題から完全にフリーでいられる人間はいない。
そもそも介護というものは、基本的には誰にでも訪れる自然現象としての老衰から今まで一人で出来ていた事が出来なくなり、誰かの援助が必要になったという事です。従って介護というものは、もともと解決すべき問題として向き合うべきものではなく、当人とその家族が取り組み続けなければならない人生上の課題として向き合うべきものと思っています。
ケアマネジャーが出来ることは、当事者の方々が課題に向き合えるように支援する事だけで、問題を解決したり、取り除いたりするなどといった事は出来ません。そもそも人生上の問題はその人ものである以上、赤の他人がどうこうすることなど出来るはずもありません。善意という心根は人として非常に貴重なものであるが、一人の人間が善意で居続けることなど出来はしない。従って職業として、年単位で関係性を持つことになるであろう方に対して対人援助という活動を行っていく立場にある者としては、何とかしてあげたいなどという安易な善意で相手と向き合うことは決して誉められるような事ではなく、むしろ慎まなければいけない振る舞いなのだと思います。
自分が担当しているケースというものは、ある意味自分自身を映し出す鏡のようなものでもある。不全感だけを強く感じていたり、或いは、妙な達成感を抱いている時、自分自身がコントロール願望や善意に伴う影に振り回されていないかどうか、対人援助職としては、常に内省する必要があると思う。善意の根底にある「私は正しいことをしている」という(潜在的)意識は、時に不健全な対人関係を形成させてしまう危険性に対する援助者側の感性を麻痺させてしまう。この対人援助に伴う病理に対する病識を欠いたえげつないケアマネジャーだけにはならないよう努力して行きたいと思っています。
ケアプランふくしあ 木藤
この仕事をしていれば、誰でも多かれ少なかれいわゆる困難事例(虐待・困窮・独居・認知症の老々介護等)と呼ばれるようなケースに遭遇します。色々な問題が次から次へと発生し、かつ、それに対して有効な対応が取れず、不全感だけが募ってくることがあります。
精神科医の春日武彦医師は、援助者側が不全感を強く抱く時、それは援助者側が描いている「こうあるべきだという生活状況」にクライアント(利用者)を持って行こうとするコントロール願望が根底にありそれが強すぎるのではないかと指摘されています。言い換えれば権力欲かも知れません。
厄介なことにこのコントロール願望は善意との親和性が高く、対人援助場面では混然一体となって作用している。善意の裏には「私は正しいことをしている」という妙なスケベ根性みたいなものと他人に認めてもらいたいという「承認欲求」が影のように張り付いている。善意が相手と噛み合っている内はいいが、いったんボタンの掛け違いのような状態に陥ると、援助者側は「私はあなたの為にこんなに頑張っているのに」、一方相手方は「余計なことをしていい迷惑だ」という状況が醸成されてしまう。最悪、憎悪だけが残る事になってしまう。場が影に支配されてしまったようなものである。この構図は親子関係にも当てはまる。親が子供に対して。あるいは子供が介護が必要になった親に対して。逃げ場のない家族介護が時に地獄と化す所以である。コントロール願望や善意といったものに付きまとう影は自覚し難く、人間関係に於いて非常に根深い問題であり、この問題から完全にフリーでいられる人間はいない。
そもそも介護というものは、基本的には誰にでも訪れる自然現象としての老衰から今まで一人で出来ていた事が出来なくなり、誰かの援助が必要になったという事です。従って介護というものは、もともと解決すべき問題として向き合うべきものではなく、当人とその家族が取り組み続けなければならない人生上の課題として向き合うべきものと思っています。
ケアマネジャーが出来ることは、当事者の方々が課題に向き合えるように支援する事だけで、問題を解決したり、取り除いたりするなどといった事は出来ません。そもそも人生上の問題はその人ものである以上、赤の他人がどうこうすることなど出来るはずもありません。善意という心根は人として非常に貴重なものであるが、一人の人間が善意で居続けることなど出来はしない。従って職業として、年単位で関係性を持つことになるであろう方に対して対人援助という活動を行っていく立場にある者としては、何とかしてあげたいなどという安易な善意で相手と向き合うことは決して誉められるような事ではなく、むしろ慎まなければいけない振る舞いなのだと思います。
自分が担当しているケースというものは、ある意味自分自身を映し出す鏡のようなものでもある。不全感だけを強く感じていたり、或いは、妙な達成感を抱いている時、自分自身がコントロール願望や善意に伴う影に振り回されていないかどうか、対人援助職としては、常に内省する必要があると思う。善意の根底にある「私は正しいことをしている」という(潜在的)意識は、時に不健全な対人関係を形成させてしまう危険性に対する援助者側の感性を麻痺させてしまう。この対人援助に伴う病理に対する病識を欠いたえげつないケアマネジャーだけにはならないよう努力して行きたいと思っています。
ケアプランふくしあ 木藤